洲崎神社は、安房國のもう一つの一之宮と言われていますが、安房神社よりもかなり新しく、江戸時代の文化9年(1812年)にこの地を巡視した老中・松平定信公が、源頼朝公と洲崎神社との歴史的な関係に深く敬意を表し、「安房国一宮洲崎大明神」という扁額を奉納したことにより一之宮になりました。因みに安房神社の相殿のご祭神(天比理刀当ス)を主祭神としています。
洲宮神社のご祭神は、安房神社の主祭神、天太玉命の后神で(天比理乃当ス)が主祭神です。また、安房国二之宮でもあり、総社の鶴谷八幡宮への神輿渡御では、安房神社の次順で斎場へ入御しています。式内社論争では洲崎神社と争っていたが、文永10年(1273年)の火災で古文書などを全て焼いてしまっていた為、証拠不十分で式内社としては認められていません。
下立松原神社は式内社で、安房神社の下の宮のご祭神(天富命)の東征に同行した由布津主命が、自らの祖神の天日鷲命を祀ったのが始まり。房総の開拓当事、田畑を荒らす獣が多く、狩をして住民に感謝をされ、それが後に神狩祭りとなったという逸話がある。また、武家の崇敬も篤く、源頼朝、里見実公などから太刀が奉納され武運長久を祈願している。
莫越山神社も、創建は古く、安房神社の下の宮のご祭神(天富命)が関東地方への東征に連れてきた天小民命と御道命が、それぞれの祖神である手置帆負命、彦狭知命を祀ったことに始まる。両神は、日本における工匠の祖神であり、ものつくりの仕事に就く者に対するご利益は取り分け強いと言われています。相殿には、彦火火出見尊、豊玉姫命等が祀られている。
天津神明宮は、神代の昔、事代主神が天孫に国土を献って後、海路をはるばる当地に上陸され、それを記念して社が建てられたのが始まりです。また、後年、源頼朝が源氏再興を祈願したところ、たちまち軍勢が集まり、鎌倉幕府を開くまでなったので、そのお礼として伊勢の地より天照皇大神と豊受大神を当地に勧請し、それ以降は「房州伊勢の宮」として仰がれています。